スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鳥類の対人類用決戦兵器、その名も「糞」 

兄が生まれて初めて鳥の糞を食らったとかで憤慨していた。これぞまさしく糞害ですねってやかましいわwwwwwww

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

今回兄が初めて糞を落とされたというのを聞いてオレは驚いたね。オレなんかこれまでの人生で少なくとも5回は落とされてるというのに兄は25年の人生で初だという。なんたる不公平!なんたる差別!いや差別は違うか。

いやね聞いてくださいよ。もうこれは高校の頃からずっとず~っと思っていることなんだけどね、鳥ってどう考えてもわざと人に向けて糞を落としているとしか思えないのよ。被害妄想とか言わないで。

仮にだよ、大地を人間が隙間なく埋め尽くしているとするならば鳥がまばらに飛んでてもそりゃ糞は当たりますよ。逆に、ヒッチコックの映画ばりに空を鳥が覆い尽くしていたりすれば人口密度がクソほど低くても当然当たるでしょうね。だけど実際はどうだ。道を行く人はまばらだし、鳥の数だって数える程度じゃないか。なのに当たる!これはどういうことだ!
それでいて犬猫が鳥の糞をキャッチしてるところって見たことないんだよ。もっぱら人間ばかりが奴らの餌食。

そうして意識していると、歩いていても自転車に乗っていても、鳥が自分の頭上ばかりを通過していくような気がしてくるから不思議だ。直線的に移動する自転車と、これまた直線的に飛ぶ鳥との交点が見事にオレの頭上にくるんだ。同じ方向に同じスピードで並行して移動しているのなら糞が当たるのもまだ理解できるが、結構な角度でクロスしていても余裕で糞の直撃を受けるってどう考えてもおかしいだろ。どんだけ精度の高い爆撃機なんだよ。この命中精度を説明するには人類に対する鳥類の攻撃と考えるのが自然なんじゃないのか。どうなんだ!


・・・・・・なんかもう書けば書くほどオレの勘違いのような気がしてきた。
被害妄想?陰謀論?例え鳥が人間を狙っていたとしてもオレが受けた被害なんてたかが糞程度のもんだよ。これを受け入れるのは自然の摂理・・・・だけどできれば触りたくはないなぁ。

スポンサーサイト

分からない事を分からないままにしておく事もまた面白いのだけど・・・ 

このマークってどんな意味があんの?
このマークの意味するところがとんと分かりませぬ。何気に色んなところで見るマークなのに、その意味を教えてくれる人ってそういえば全くいなかった。
自らの無知を晒すようで恥ずかしいのだが、意味の分からないものを目にし続けるという事の恐怖の方が大きいので今のうちにそれを解消したい。誰か教えて。

このマークの意味は使用シーンから想像するに、「No War」とか「Love&Peace」みたいな感じなんだろう。ロックな感じ。
仮にその想像が間違っていたとしても、オレにとってこのマークはそういう意味として定着しているのだからそれはそれで正解だと言える。そもそもピクトグラムのような具象表現ではないのだろうし、その点で解釈の自由度は高いわけで、それならばむしろ使用シーンから受けるイメージのまま理解してしまっても構わないはず。本来のマークの意味・目的から離れてしまう恐れはあるが、思想の表現の道具として、既知の言語を解さない記号によるコミュニケーションが成立しているということになるのではないか。ならないな。自己肯定おわり。

成田エクスプレスとの比較
似ている。が、きっと、いや間違いなく関係ない。成田エクスプレスかっこいいよね。


そうそう、何かのブランドのロゴという可能性も捨てきれない。
こればっかりはブランドというものに疎いオレにとっては知りようもなく、また興味もないので意味を知ったところで「マジパねぇッス先輩wwwww」で終了になると思う。そこから先の探求もおそらくないであろう。(「ブランド」と「メーカー」って意味的には紙一重だけど、受ける印象がまるで違うのは「ブランド」の持つ力のせいだろう)

さほど日常的に見かけるわけではないのだけど、ちょっと気を抜いてると出現するから忘れることもできやしない。邪魔だ。目障りだ。分からないだけだけにかえって気になる。意味が分かるものならある程度スルーできようものを。

愛はッ!理屈を超えるとでも言うのかッ!! 

恐怖の授業をひとまず乗り越えることができた事を喜んでいる。

他の人の発表にいちいち茶々入れてたら、自分の番になった時に散々突っ込まれたので後悔しました。
発表直前まで緊張のあまり「私は貝になりたい」などと意味も分からずに言っていた。あの授業もういや。いい先生には違いないんだが緊張感が尋常じゃない。
あんまりストレス溜まったもんだから発表後はずっとこんなの描いてた。
TS350459.jpg

以下近況。

朝の5時半頃でも最近はすっかり明るくなったことに軽く引いてます。こんなに早い時間から夜が明けちゃって地球は一体何がしたいんだ。狙いが分からん。
徹夜作業の敵だと思います。プレッシャー的な意味で。


なんだか最近おかしい方向に思考が向かってます。
いや、決しておかしいわけじゃなくて、それはむしろ誰もが真っ当だと思うくらいまともなものなんです。

で、その考えてることというのが「人と人とを繋げている不思議な力はどこから来るのか」というもので、その「力」を何の疑いもなく肯定しちゃっている自分も不思議というか。
今までそんなことほとんど気にしたことなんかなかったのに、ここに来て急に、それでいて心のどこかからか自然と湧きあがって来たこの感情は一体なに?

なんというか、どうしてこんな方向にモノを考えるようになったのか、そのきっかけがハッキリしないもんだから戸惑ってるというのが正直なところか。

ほら、オレにとって親っていうのは生んでくれた人ありここまでオレを育ててくれた人であり、自分の起源という意味では絶対的なものですらあって、それでも人間的にはどうなのよと思う部分もあったり、じゃあそれで嫌いなのかと問われれば答えはノーで、その理由は何かといえばやっぱり人生の大半を共に過ごしている人間であるというのがあるわけで。もちろんそれだけではないが、「ただそれだけのこと」で考えただけでも自分の中でかなり大きな存在になってるのは明白で、兄弟に関してもそれと同様の感情を抱いていて、それなりに家族の問題とかもいろいろ抱えてるけど、一生その繋がりが切れることはないと思うし、少なくともオレは何が起きても縁を切るということはしないだろう。

まぁこの感情に関しては根拠はないにせよ理解はできる。それが家族ってものならそれでもいいと思う。
もっと分からないのは夫婦とか地域のコミュニティーとか本来は他人のはずなのにいつの間にそんな繋がりができあがっちゃったの?っていうアレですよ。
両親を眺めてると最近はいつも思う。この人達はかつて他人同士だったのに今じゃすっかり家族になってるんだよなぁ、と。

そこではオレが現時点で家族に対して抱いている感情とは全く別の次元の力が働いている。
オレが家族に向けている感情は至極当然のものだと思うし(こういうことってステレオタイプに聞こえがちだけど、そういうことに関して全く抵抗感がなくなったのは物凄い変化だ)、またそれが血の繋がりという切っても切れない確固たるものがある事に起因している一面も認めた上で夫婦というものを考えたときに、その血さえ繋がってない人間同士がその後の人生を共に生きることを了承し協力し合い共生しているのが不思議でならん。お前らを結び付けているものはなんだ。

オレからすれば家族は生まれたときから一緒だったから当然のように憎みもするし好きにもなるっていう愛憎混在した存在でもオールOKだと思ってて、その関係を生み出したのが過ごした時間と出会いのタイミングだとすれば、必ずしも夫婦の場合はそれが当てはまらないんじゃないかと。

他人から恋人へ、そして夫婦となり子供ができて核家族を形成する過程で何が起きたのか。
血の繋がりさえ超えた、宇宙的ピラミッド的パワーが作用しているとしか思えん。超次元にもほどがある。これこそ本当に理解できん。なんでお前ら夫婦やってんだと是非一度問い詰めてみたい。いや決して悪い意味じゃなくこれ以上ないくらい肯定なんだけども。

しかしこうなってくると結論は「夫婦ってすごいなぁ」という全く答えになってないところに着地せざるを得ない。そういう意味では激しくどうでもいい。そしてその結論すら物凄くステレオタイプだ。

どうでもいいことのはずなんだけどどうしても気になる。なんなんだこれ。
まぁ人と人とのコミュニケーションという側面からなら今後も考えるに十分値するよ。一番重要なのはそこなんだし。


まぁそんな感じです。
ああ今日も学校だ。

公的空間と私的空間の境界線はどこにあるのか 

どうもここのところ公私の境界が分からん。

昨日の話なんだけど、誕生日だかなんだか知らんが学校の食堂で鍋パーティを始めたバカがおりまして、それを間近で見ていたオレはむしょうに腹が立ってしまったわけで。

もうなんていうんだろうな。自宅でやれよ、と。食堂は公共の場じゃないんかい、と。

他人の領域をどこまで認め、自分の領域をどの程度まで広げることを認めるか。そこんところをキッチリ考えておかないと偉そうに怒ることもできないので気に留めておこうと思う。
公共物は「みんなの物」であると同時に「自分の物」でもある、だから自由に振舞っていい、という理屈はおかしいということを自分は説明できるだろうか。


なんだろうな、公共の場だろうと人と話すのは別に許されることなんだよな。
他人の領域を侵さなければ何を話していようが問題ないんだ。
でも人の会話を邪魔するくらい大きな声で会話してれば怒られて当然。じゃあただ話してるのと何が違うのかと。そういうことだよね。
喧嘩してる人がいきなり関係のない第3者に殴りかかるようなもんだ。それはただの頭のおかしい人か。


人の身になって考えるというのも限界がある。要は想像力だ。「こんなことをしたら嫌がる人がいるだろう」と想像できるか否かが分かれ目になるんじゃないかな。

常識という言葉は嫌いなのでそんなことを言う気はないけども、共通認識として最低限持ち合わせているはずの知識や考えをいちいち人に確認しないでも自分で気付けるようになるために義務教育って制度があるんだと思う。
「そんなこと習ってないから分からない」なんてセリフをよく聞くが、それは自分で解決すべき問題を人に押し付けている点で公共物を私物と勘違いしてる事と同じだ。とんだ横暴だよ。


まぁ結局やってる人にとっちゃ無意識にやってることだから言われなきゃ絶対分からないんだよな。無意識のうちに行使される悪意ってのも厄介だな。本人はそれが間違っていることだとは気付いていないんだもの。

あ~でもそれを「間違っている」と断定する側の価値観を押し付ける形になるのもおかしな話だな。オレの正しさを誰が証明してくれるのかと。
つまりはアレだ。大多数が勝つってことか。多数派が勝って少数派が殺されるわけだ。「常識」形成の仕組みと同じだ。なんという秩序。


昔から人の嫌がることはするなという。自己防衛の裏返しだ。自分が傷つきたくないから人も傷つけない。秩序の基本です。それでも他人への異議申し立てが絶えないのはそれぞれ価値観が違う人間が集まっているのだから当然の結果だ。
集団の中にあって、決まりごとを守ることで皆が平和に過ごせるならそれは自分のためにも守るべきものなんじゃないか。

ああもうよく分からないや。あっちを立てればこっちが立たずってことにしかならんわ。
KYだなんて小難しい言葉が流行ってるけど、そもそもその言葉を使う資格をもつ人間がこの世にいるのかよ、と思う。

最終的には誰にも公共物と自分との境界線なんて分からないんじゃないか。曖昧なままなぁなぁにしてなんとなく「それらしいライン」を引いているだけなのではないか。無言のままお互いに探り合い、他人の領域を侵すまいと努力する。
少なくともその努力を惜しむ人に公共物を使う資格はない、な。うん。少数派が生き辛いようにこの国はできてるんだぜ。

もっと端的に言えば、オレは奥ゆかしい女性の方が好きだ。不器用で無骨な武士のような男に憧れるわ。日本的にいこう。それで万事OKじゃね?

それにしても「それらしいライン」ってのが他にも色々ありそうな予感がする。厳密なラインを定めぬまま無意識になんとなくやり過ごしていることが。
ちょっと考えてみる事にしようか。


ところで全然関係ないけどニコニコでドラゴンボールの動画見てたらビーデルの魅力に気付けました。すんげーかあいい。
ぶかぶかのTシャツにスパッツとか。声優の力も相まってとんでもない破壊力も持ってる。もう髪長くても切った後でもどっちでも良いです。かわいいからいいです。

人と人は本当に理解し合えないの? 

お互いの表面だけを認め合うごまかしではない、人と人との本当の理解ってなんだろう。

心というものを定義することができるだろうか。
いや、そもそも心の存在すら疑わしいと思う。
人を体と心とに分離して考えるのはナンセンスだ。脳が全ての意識の中枢とする考えも既に古く、情報を処理し指示を出すというシステムは全身に分布しているとする考え方もある。体そのものが思考しているんだ。
体なくして心は生まれ得ないんだ。じゃあ体と心の境界線ってどこにあるのかと。
自分の外側をハッキリさせることでしか自分の内側は見えてこない。心があると仮定した場合それしか心の形を知る手段がないように思う。

他人との共通認識や客観的な事実が自分の外側の世界を構成しているのなら、それ以外の主観的な漠然とした胸の内こそその人の本当の声なんじゃないか。それが心だろうか。
言葉にはできないけど間違いなく何かを感じている。その「何か」を知ることができるなら真の意味での相互理解も不可能じゃない。

なんていうんだろう。例えばモノに触れた感触をダイレクトに人に伝えられればいいんだよ。
人は言葉があるからこそ思考できるわけだけど、同時にどこまでも言葉に縛られているとも思う。
まぁ感覚的に生きたところでイコール漠然とした心を理解することができるとは限らないわけだけど、少なくとも全く別次元でのコミュニケーションの形を得られると思う。

狼少女になったところでそれに何の意味があるの?って感じだけどな。所詮夢次元の話だし。
ただ現状では自分の気持ちは誠心誠意色んな方法を使って伝えるしかないんだよな。相手の気持ちなんか結局自分で慎重に判断するのがベターっていう。

考え方のパターンが分かれば多少は相手のことを理解していることになるのだろうか。
そこまで辿り着くのにえらい時間はかかるだろうが、少なくともそれは「理解はできないがアナタを認めますよ」ってだけの関係とは一線を画す。それが今もっとも正解に近い形なんじゃなかろうか。
気分的には思考がパターン化してるなんて凄く嫌なんだけどね。でも実際そうなんだから認めざるをえないわけで。
要するに必要なのは洞察力ってことなのかな。それもなんか人情味に欠けるような気もする。

う~ん、なんだかますますツボに嵌ってしまった感が否めない。
こうまでして他人と理解し合いたいと思うこの気持ちは一体何なのかも気になるし。
どんだけコミュニケーションに固執する気だオレは。ああもうまたこんなところに行き着くのか。最近ちょっとオレおかしいかもな。ちゃんと健康的な生活しよう。


人に「理解してる」なんて軽々しく口にしちゃいけない風潮がはびこってる。かくいうオレも言っちゃいけないとは思ってる。だからこそ歯向かいたい。できるだけ自分の思考は一方向に囚われたくない。
根拠を挙げられないから何を言っても愚にもつかない感じになるのは仕方がないだろうよ。こういう繊細な部分に触れる話だからこそ「常識だ」とか言って思考停止させたらいかんと思うのです。
まぁ単なる天邪鬼根性なんだが。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。