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チェックメイトなんだろうか 

職が見つからなくともバイトはせにゃならんのです。
こんばんわ。ご無沙汰しております。スズタケでございます。職はないけど私は元気です。

卒展の自分のシフトも無事こなし(結局搬入の手伝いには行かなかった)、ようやく就活に専念できると喜ぶのも束の間、カネがないからバイトで小遣いを稼がねばならないのです。なんかもう日増しに無職への道ができつつある気がしてならない。やめてよね本当にもう・・・。

今日はバイトの初日で、わざわざ電車で一時間もかかる場所まで行って仕事をしてきた。ちょっとした事務仕事なんだけど、自給の割りに仕事が楽すぎる。キツイ仕事は嫌だけど、楽すぎる仕事ってのも張り合いがなくてつまらない。一時間ごとに休憩があるとかどんだけゆとり仕様なんだ。ある程度追い込んでくれないと、なんかこう、焦燥感というか、イライラと焦りで集中がマックスになる感じがなくて面白くない。一日のうちで一番疲れるのが行きと帰りの電車移動だってんだからね。一時間の移動時間で絵描いてるよ。


先ほど唐突に「ぱつんぱつんのパンツ」というワンフレーズを思いつき、そのあまりの語感の良さに気をよくしてしまった。是非声に出して言ってみて欲しい。ぱつんぱつんのぱんつ。うん、部屋寒いな。

しかし自分の思い付きを改めて振り返ってみると、パンツがぱつんぱつんの状態というのは一体どういうことなんだろうか。
ぱつんぱつんのパンツというものを想像するに、決して、決して悪いものではなくむしろオレの心を優しくくすぐる素敵なアイテムに違いないのだが、いくらジャストフィット、ジャストサイズのパンツでもぱつんぱつんなどと表現するものだろうか。

いくら太股がむっちりしていようが、パンツのゴムの上にお腹の贅肉が載るくらいの豊かな肉付きだろうが、通常パンツというものはパツパツするほどキツイものではないだろう。むしろそれでは体に悪い。適性なサイズの下着を身に付けてこそ健康な身体が維持されるのであって、いかなるエロスもそこを基点とするべきだと思う。それを前提とするからこそ、デフォルメや逆転の発想が意味を持つんじゃないか。ゆるゆるのパンツなど論外もいいところだが、だからといって肉感を強調するためだけに過度に身体を締めけるパンツを身に付けることは健康面に問題が生じる恐れがあると思う。そんなことをうら若き少女に強要するなんてことは決してあってはならん。あってはならないけどそれでもぱつぱつパンツの魅力には抗いがたく。いや、ダメだよ。しかし・・・・。ぬぅ・・・。

ぱつんぱつんなパンツがいくら心躍るからといってホイホイ食いついてしまっていいのか。安易なんじゃないか。ふしだらなんじゃないか。パンツと着用者に対する誠意に欠けるんじゃないか。
もっと色々な部分で気を遣ってあげるべきだと思います。別に必ずしもぱつんぱつんじゃなくてもいいし、もっと他の可能性も期待できると思うんだよ、うん。オレはいつでもパンツを信じてるよ。パンツの可能性を信じてる。

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さすが、武蔵浦和は格が違った 

登校途中にルーズソックスの女子高生を立て続けに2人も見た。2人も。

別にルーズソックスが特別好きというわけではないが、このご時世にルーズソックスを売っている店があり、そしてそれを買い着用する十代の女の子が存在すること(それも2人も!)に驚きと興奮を禁じ得ない。
ルーズソックスは90年代の女子高生を語る上では避けて通れない重要なファクターであるが、今はもう21世紀に突入して丸9年、女子高生を取り巻く環境もファッションの傾向もガラリと変わってしまっている。にも関わらずだ!少なくとも彼女ら2人は前世紀の遺物を、ルーズソックスをはくことになんらためらいを見せるふうもなく颯爽とオレの横を通り過ぎて見せた!なんということ!

そろそろ学校に着くのでお開きです。

負けは負けと認めようじゃないか 

別に戦っているわけでも競い合ってるわけでもないが、これを見た瞬間に「やられたっ!」と思った。くっそ!くっそ!

なんだろう、この気持ち。物凄い敗北感なんだが。やったもん勝ちとは言うけど、サイズ、質感ともに良い選択をしていると思う。どう考えてもネタとしてしか変われないということを自覚して確信犯的に売ってるよ。そういう商売は好きだ。オレは買わないけど。

そう思えるからこそ悔しい。下半身だけっていうのがね、マネキン的エロスを醸し出すわけですよ。人体とエロスの記号化・形骸化が著しいわけです。短絡的と言われようとこの辺のセンスは見習いたい。
でもまぁメイドじゃなくてもいいんだよこういうのは。なんならジーンズでもいいだろうし。た、タイツも、ね。ね。

これ自分で着せ替えできたら一層夢が膨らむな。

ストッキングという肌 

最近のオレは黒ストッキングこそが至高だと思うのですよ。それもパンストね。
ニーソの魅力を重々承知した上で言いたい。

もうね、セーラー服に黒のストッキングっていう組み合わせだけで50㌔くらい軽く全力疾走できそうな勢いです。

なんでいきなりこんな事を思ったのか自分でもよく分かりません。何がスイッチになったのか皆目見当がつかない状態です。
こんなことになって一番困惑してるのは他でもないこのオレだ。正直不安でならない。自分が。

これからの季節時折見かけることになるであろうストッキング。
オレは一体ストッキングの何が好きなのかを少しでも明確にしておく必要がある。

まずストッキングをはく前の肌の色と、ストッキングの黒に注目したい。
ストッキングをはくことで、脚が本来あるべき色、つまり皮膚の色と全くかけ離れた色になるので、人はそこに一種の違和感を感じるようになる。

体の一部が不自然になっていると、人は無意識にそこに注目する。違和感を感知するわけだ。

その注目するという行為が、脚が本来持つフェティシズムを呼び起こし強調し、もともと備えていた魅力以上のパワーを手に入れることが可能になったのではないだろうか。
つまり虚構的であるからこそ「リアル」をイメージする余地ができ、それが自らの想像力との相乗効果を生みだしていると考えられる。

モノクロ写真がカラー写真よりも情感豊かに写って見えるというのと同じ理由で、一度現実から離れることで逆に現実の存在を大きく感じることができるようになるのだ。
また日本人の肌の色と黒という色には相当の落差がある点も気になるところだ。
モノトーンの持つシンプルでシック、そしてどことなくセクシーというイメージをそのまま投影できるのではないだろうか。

ストッキングの魅力を考える上で無視してはいけないのは透け具合だ。特にそれは間接部で顕著になる特徴があるが、この間接という部位が重要だ。
間接というものは人体の構造上なくてはならないポイントだ。造形的に言えば、間接が人体の美しさを底辺で支えていると言っても過言ではない。人体において各間接が与えるリズム感は自然が生んだ芸術作品なのだ。

膝を曲げた時にストッキングは、黒い繊維の下から白い肌の存在を微かに主張する。これはストッキングという物の材質上偶然引き起こされたものだろうが、この現象は偶然の産物というよりもむしろ運命的であったとさえ思う。
もしこの時透ける位置が脛や太股であったらこれほどの効果は生まれにくいはずだ。人の動きに合わせて微妙に変化する「肌感」こそストッキングの魅力の最たるところであるのはもはや説明不要だろう。。
人体とストッキングの動的な関係は、恵まれた出会いであったといえる。


冒頭で言ったようにオレはセーラー服とストッキングという組み合わせが好きだ。
この場合オレがもともと女子校生や女子中学生が好きだという基盤があったからこそ生まれた嗜好だと考えているのだが、このストッキングというものが彼女らを見る目にどのような影響を与えたのかはまだはっきりしない。
単純に考えれば「ストッキングが少女に色気をプラスした」というところに落ち着きそうだが果たして本当にそうだろうか。
少女に色気をプラスしたからといってそれがそのまま魅力が向上したことの理由付けになるだろうか。

中には校則で黒ストッキングをはくことを義務付けている学校もあると聞く。雪国では防寒の意味もあるそうだ。なんとも羨ましい話ではないか。(いや、あくまで素足の魅力も承知の上での発言ですよ)

不本意ながらもストッキングをはいてこなければならない娘もいるだろう。身だしなみが気になる年頃だ、色が気に入らないということだって十分ありえる。
それでもなお黒。黒のストッキング。その薄い皮膜の下に一体どんな想いを覆い隠しているというんだ。分からん。まったくもって分からん。


それにつけてもストッキングは良いものだ。これからの季節に過度に期待したい。

ブルマについてこんなに考えたのは初めての事かも知れん 

ひっさびさにパソコンに触れてウキウキしてます。
いや、パソコン自体には電器屋で触ってはいたけど、自分の家のパソコンはまさしくパーソナルであってそれだけで特別な意味合いがあると思うわけで。

サイト巡りもほどほどに書き溜めていたことを書こうと思います。
明日からはリコロンの合宿だけどもあんまり関係ないな。
でもまぁ疲れてるので12時までには寝ます。はい。

いきなり飛ばしていくよ。扱う題材は「ブルマ」だ。


オレが小学生の頃は女子の体育着といえばブルマだった。
風潮としてまだ「女子はブルマ」という考え方が一般的だった時代だ。
ちょうどオレが小学校を卒業する頃に体育着を男女ともにハーフパンツにしようという動きが出始め、今ではそれが主流となっている。

服装による男女差別をなくそうと主張する団体がいたのかどうかは知らない。またそれに対してオレは是とも非とも考えていない。そんなものは時代によって移り変わっていくものだろうし、必要であれば元に戻ることもあるだろう。

ただそこで哀れに思うのは趣味人たちの存在である。
時代の流れとはいえ、当時の趣味人の嘆きが聞こえてくるようではないか。
成人を迎えた人間の一人として、彼らのことが理解できないこともないので、現代のブルマの希少性・嗜好性の価値は大いに認めるところである。

さてここで疑問に思うのは「なぜブルマは廃れてしまったのか」ということ。フェミニズムの歪んだ解釈を根拠に、男女平等を笠に着た暴力がしたり顔でまかり通っていないだろうか。そんな懐疑を抱いてみる。

当たり前のこととして横たわっている常識というものにアンチを唱える──。
ここではブルマの有用性について個人的な意見を述べ、今一度体育着のあるべき姿を示していきたいと思う。


まず体育着に最小限求められる機能とは何か。
これは「動きやすさ」を置いてほかにない。
体育では効果的に体を動かし、健やかな心身を育成することが目的とされるので動きにくい服装など論外だ。
もっとも、服を着ない方が動きやすいに決まってるという意見もありそうだが、体温の低下や怪我を防ぐという意味でも服を着用することの重要性は説明するまでもないと思う。

動きやすい服を考える時に重要になってくるのが間接の可動範囲である。これを無視して理想的な体育着を作れるはずがない。
この場合、あらゆる面で合理的な一流のアスリートを参考にした方が話が早いようだ。

陸上選手のユニフォームを見ていただきたい。競技によって多少の差はあれど、どれも無駄な部分が見受けられない。
パンツは脚の根元まで切れ込んで、シャツの袖はない場合が多い。
ものによっては胴の部分が丸っきりなくなっているものまである。

余分な部分をカットし、必要な部分は残す。この一見単純な作業がより良い形を作る上で重要なことなのである。そうしてモノは洗練されていく。
そうやって科学の粋を集めた最高の服を着て、アスリート達は歴史にその名を刻んだきたのだ。


合理的に考えれば、体育着に機能性を求めるのならば形だけでも一流のものをマネすればいいだけのことではないか。
つまり動きやすい服を作りたいなら、世界で最も動き回っている人が身に着けているものこそが求めているものということなる。

ここで一度ブルマのフォルムを思い出していただきたい。
そう、陸上選手のユニフォームに似ているのだ。
驚くべきことにこれは男子の短パンでも同様の特徴を見出すことができる。
つまり体育着は初めから一つの完成形を目指して作られたものだったのだ。決して子供用とバカになどできないのである。
この徹底した合理性に茶々を入れる方がどうかしてるとしかいいようがない。
アンチブルマ派の言うジェンダーの問題(ジェンダーの認識そのものが間違っているのに主張だけはしたがる)以前に、ブルマは体育着としての条件を満たしていると言ってよく、また優れた性能を持っているといって差し支えないだろう。

よって現時点でブルマは体育着としてベストの服であると結論づけるものである。

悪戯にマニア的意味合いでブルマを推奨しようというのではないことがお分かり頂けただろうか。
ではここからはまた別の角度からブルマというものを考えてみようと思う。
もうウンザリ!という方は退場してもよろしい。


体育着としてブルマが合理的であることは分かった。
しかし実態としてブルマを恥ずかしいと感じる向きもあるようなのだ。これは理屈では説明できないことなので何とも言えないが、では何故ブルマが恥ずかしいのかを考えて観ようと思う。

まず考えられる可能性として挙げられるのは、露出する面積がパンツと同じであるということだろう。つまり脚が露になってしまうことへの抵抗感だ。
しかしこれが水着の場合、例えばビキニでは下着と肌の露出度は同じであるはずなのに何ら恥ずかしがる様子もなく喜んで着ている。むしろ開けっ広げに公開しているではないか。これは一体どうしたことか。

またミニスカの場合においては、直接の露出度はブルマに劣るが、一たびそこへ風が吹けば儚い布はヒラリと舞い上がってしまい、あれほど隠していたパンツが公衆の面前に曝け出されることになってしまう。
その危険を知りながらもあえて彼女らはミニスカを愛しているというのだろか。

驚くべきことである。ここにきて露出すること自体に問題はないのではないかという新たな方向性が見えてきてしまった。

そこで一つの仮説を立ててみる。
問題は「ブルマ」ではなく「体育」の方にあるのではないかと。

つまりブルマそのものが嫌なのではなく、「体を動かして汗をかく→汗臭くなる→女らしさから離れてしまう」という論法により体育が嫌いになり、転じてそれを想起させるブルマに対しても同様の嫌悪感を抱くようになってしまったのではないかと。

これは男の視点から見た勝手な想像だから必ずしも正解だとは思えないが、この問題の一因と考えられると思う。
もっとも防犯上の理由から着用しないということも考えられるのだが、そこまで話を広げてしまうと手の施しようがなくなってしまうので今回はこのあたりで切り上げることとする。

あまり切れ味の良い結論が出なかったのが心残りだが、もういい加減眠たいのであっさり諦めようと思う。
もういいよブルマなんか。もともとそんなに興味ないし。あったらあったで問題だけど。


それじゃあおやすみなさい。

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