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無意味なものは意味のあるものと同等あるいはそれ以上に価値がある説 

「表現」などと呼ぶ以上、前提としてそれを伝える相手がいなければその行為自体意味をなさない。相手に何かを伝えようとする事=コミュニケーションなので、あらゆる表現活動の目的はコミュニケーションであり、それのみが意味のある行為ということになる。AからBへ何かを伝える時、AとBの間にあるのが表現で、意思の伝達の方法という事だ。言葉、文字、絵、音、金などなどコミュニケーションの手段というのは世の中にたくさんある。

じゃあ逆に無意味なものってのは具体的に何よ?と考えると、それはコミュニケーションが成立しないものを指す。突き詰めるなら、ハナから他人に観測できないもの、あるいは忘れ去られたもののいずれかなんじゃないか。自分以外の人間が見たり触ったり出来なければ(もっと言えば気配すら感じることが出来なければ)コミュニケーションなんてしようもないし、人の記憶から忘れられたものならば当然コミュニケーションの手段とはなり得ないので、過去にいかに実用的な用途があったとしても実質的には無意味なものと成り果ててしまう。

考えてみれば、この2パターンの範疇に含まれるものって実はとんでもなく多いんじゃねえの。
部屋を見渡してみれば、もはや自分の記憶から忘れ去られたものなんかいくらでもあるし、人にはとても見せられないものだって腐るほどある。いかに情熱を傾けて作ったものでも、コミュニケーションという場に出されないのであれば、表現にはなり得ず無意味なものになってしまう。そういう意味で無意味に終わったものってそれこそ無数にあるはずだ。しかもそれは時間経過と比例して絶え間なく生産され続けていて、誰もあずかり知らぬ所で蓄積されていく。

発掘されていない遺跡、家の天井裏、バッグのポケットの底、一週間前の夕飯のおかずなどなど・・・すべからく無意味よね。コミュニケーションとは完全に切り離されてる。どこかの誰かが何かしらの想いを込めて作った「何か」はどこにでも存在していて、情け容赦なく無意味なものへと変わっていく。

見ることも触れることもできず、誰も知らない無意味な「何か」が降り積もってこの世の大部分は形作られている。そう考えると無意味なものへの愛着も芽生えようってもんですよ。本来意味のあるものの逆説としてしか説明できない無意味の価値というものを、表現というフィールドであればまた別の視点からその価値を再確認できるというわけだ。

言ってしまえば歴史というものは無意味なものが積み重なった塊で、今現在意味のあるものと見なされているものはほとんど表面的な部分でしかないように思う。その意味のあるもののうち価値があると言われてるものってどれだけの割合であるのやら。そしてその価値も人が忘れてしまえば無意味になる。毎日当たり前に触れているあらゆる物が、ベラボーに刹那的な存在に思えてくるじゃないか。

「無意味とはなんぞや」という事を気にし初めて早数年。主観的に意味のあるものにしか価値を見出さない考え方が世間の主流なのは理解した上で、まるっきり無意味なものを主観的に捉えると同じくらいの価値を見出せる、と、ようやくその結論にたどり着いた次第でございます。


おやすみなさい。

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