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デザインに関して思うこと 

人への奉仕こそ道具の存在意義だって言うけど、その道具を作る人は人に奉仕しているのかということに思いを巡らせた。

つまり、その道具が真の意味で人に奉仕できるということを、作る側の人間はどれほど理解しているのだろうと。

マーケティングなどの調査では「使い心地」や「欠点」は見えてくる。改良点も分かるだろう。

でも、その調査方法では、その道具が本当の意味で使用者にとって役に立ち、気に入ってもらえているかということの判断基準にはならない。

重要なのは作る側の人間が、使用者の立場になって考えることだけど、果たしてそれが純粋に行われたことが今まであっただろうか。

何かを専門にしている人間にとっての常識は一般人の常識ではない。

おそらくこの壁を越えることは不可能だと思う。
不可能だからこそ壁なんだ。
潜在的にしろ表面的にしろ、認識の相違というものは必ずある。
その壁を認め、更にその上でどうやってそれを崩すかが問題なんだよね。

ではどうすればいいか。

道具を作る、というフィールドに限って言えば、おそらく作る側の人間にとって「奉仕の精神」が絶対必要条件だと思う。

「奉仕」に「個」は要らない。

あるのはただ「尽くす」という一途な「思いやり」だけだ。

そもそもオレ自身が奉仕の精神を持って生活してなきゃダメってことだね。

実際問題として道具の形のカッコ良さなんて大きな問題じゃない。
ただのポーズなら必要ない。


道具はアノニマスデザインを全うしなければ意味がない。

学校や企業といった場で、道具の理想型に近づく努力をおろそかにしてはいまいか。

事実、アノニマスデザインについて大学で教わったためしが無い。
それを採用するかどうかはさておき、論じるべき重要なテーマだとオレは思う。
日芸デザ科はバウハウス流の教育を売りにしてるけど、100年近く前の思想にいつまでもおんぶに抱っこじゃマズイと思う。
金沢美術工芸大学なら、と後悔する要因のひとつだ。
いや、別に日芸が悪いんじゃなくて、教育理念の違いを痛感してるだけです。

結局商業的にならざるを得ない今のデザインに対してすごく違和感がある。

そんなモノにどれほどの価値があるってんだ。
利益を考えた時点で道具は死ぬぞ。


ああもうなんかよく分かんないや。

世の中は純粋なモノを許容できるだけの体制が整ってないんだ。
いや、そうしてるのはシステムではなくそこにいる人間だ。
人間の欲だ。

欲の塊である社会の中で、道具がどれだけ純粋に近づけるのか。
その漸近線を見出さなくてはならない。
最も必要とされているのはそれを知ることのできる「感性」なのではないだろうか。

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