FC2ブログ

遊べとか勉強しろとかどっちなんだと 

こんばんわ。休みの日ということで昼間はひたすら惰眠をむさぼっていました。なので夜になってからすごく目が冴えてます。こんなことやってると週明けにきつくなるんだ。うん知ってる。

それはそうとちょっと考え事がありまして。
なんか最近子供とかなんとかそういう話が多いのだけど今回もそんな話です。

ここ数年巷ではエリートにするためだかなんだか知らないけど、子供が小さいうちからかなりしっかりと勉強させて、中学受験とかも当たり前、私立で求められていることを公立校に求めたりという事があったりするみたいですね。またそれとは逆に、子供のうちは外で遊ぶことをしっかりさせたいとする親も同時にいるようで、早期教育に関する論争がテレビでも大きく取り上げられていたりしますよね。

もうなんかそういうの見る度に思うのだけど、その二元論的な問題解決ってなんとかならないの?と。
早いうちから勉強させる事も、外で遊ばせることを重視することも、どうにもなにか腑に落ちない。なんでそんな偏った考え方だけになってしまうのかしらと見る度思っていました。

まず教育一辺倒の考え方についてですが、そもそもオレがそういう育てられ方をしてないので到底理解できない。いや、経験してないから良し悪しが判断できないというべきか。
ただ、子供が何を望んでいるのかということに関してはよく考えるべきだと思う。
子供というものは親や周囲の人間にもっと自分を見て欲しいと思っている。滑り台ひとつすべるのに「ママ見てて!」って言うでしょ?注目されて可愛がられないと生きていく術がないことから身に着けた本能でしょう(赤ちゃんが話し始めるより早く笑顔を作ることを覚える、とかね)。そんな子供を相手にして、大人が「こういう事をやりなさい」と言ってその通りできたら褒めるという事をすれば、当然子供はそうする事を「望む」でしょう。「こういうの好き?」と聞かれれば満面の笑みで「すき!」と答えるんじゃないか。それをどう捉えればいいのか。
子供が好きと言ったものをやらせたいという純粋な親心も、考えようによってはかなり不安要素満載の判断ではある。将来のための勉強、という大儀名文にも、その子の適性以外の不確定要素が多すぎて正しいとは断言できない。
燃え尽き症候群の原因が幼い頃から続けていた猛勉強のせいだったとか言語道断でしょう。

それではその逆、子供は外で遊びなさい式の場合はどうだろう。我が家がまさにそれだったのだけど、今ではむしろ外に出て遊ぶことなんてほとんどありませんwww
子供の頃はさんざん遊んだけどね。草むらで虫を取ったり、友達とアスレチックを基地として互いの陣地を奪うために殴りあうという暴力的な遊びをしたりしていました(暗黙の了解として力の加減はしていたし、友達の関係はむしろ良かったので誤解なきよう)。得意ではなかったけどそれなりにスポーツもしていたし、活発な方だったのではないでしょうか。
ただ、今でも覚えているのだけど、小学2年の頃に、友達の言う「1週間後」の意味が分からずに悶々としていたことがありました。なんとなく親にも聞けずに自分の無知を恥じたものだ。幼稚園の頃に一応基本的な時計の読み方だとかひらがなや数字の読み方などは学んでいたものの、「昨日」「今日」「明日」以外のカレンダーレベルの時間の概念というものが小学2年のその時までなかったため、かかなくてもいい恥を一人感じてしまっていたわけです。当然友達との差も感じました。
こういった知識の差というのは大人になると更に顕著になってくると思うのですが、子供のうちならば多少の挽回はできるのではないか。最低限の生活に必要な知識だけでなく、それに広がりを与えるための知識というものはあるに越したことはないと思うのです。


個人的には知識と体験はできるだけ同量・同質であるべきだと思っています。これは今でも気をつけていることではある。観測できるものではないから感覚的に調節しなきゃならないけれどもね。
知識と体験は一見別物のようにも見えて、確かに部分的には違うものなんだけど、基本的には体を通して得ることができる刺激としてほとんど同質なんじゃないかなと。
それらが相互に絡み合い豊かに高まる事で初めて血となり肉となり、その人の「経験」として昇華されるわけで。
要するに外遊びも勉強もどっちもやらせろよと。

草に触れずして草の柔らかさを知ることができるかい?土の温度が分かるか?空の色彩の変化を知ることができるのかと。言葉で理解できない世界を知るには身体で感じるほかないわけで。
逆に知識がなければ、何故風が吹くのか、とか、夕焼けがなんで赤いのか、とか、そんな身近な疑問にすら答える事ができない。

仮に疑問を持って、自らの手で一から疑問を探っていったとしても、答えに辿り着くまでには途方もない時間がかかる。その時間を短縮するために知識というものがある。それは先人が長い時間をかけて積み上げてきた叡智だ。身近にあるあらゆるものに対する疑問の広がりとその答えに導いてくれる知識というものを甘くみちゃダメだよ。

オリンピックの選手だって体ひとつで運動をしてはいるが、あれはもはや科学の世界じゃないか。一挙手一投足を細かく分析して、より高く飛ぶため、より速く走るために、身に着ける道具の素材まで吟味して最高の状態を模索していくんじゃないか。全身の毛を剃ったりさ。そしてそのデータを元にしてプレーを見直していくわけで、まさしく知識と体験から素晴らしい経験を得る実践的な例と言えるのではないか。
身体感覚だけ、とか、机上の理論だけでは勝負にならないんだよ。

もっと分かりやすく言えば、AV観ただけでセックスしたことにはならんだろ、と。実際にヤらないことには分からないじゃないか。色々と。逆に実地経験だけの人だって、AVを観ることで更にプレイに深みを与えることができるんだ。できるらしい。そしたらどちらかをおろそかにしたり重視するなんてとんでもない話じゃないか。まぁこれに関してはオレは確かな事は言えないんだけども。言えないんだよ。察して。

昔から「文武両道」とか言うじゃない。古臭いかも知れないけど。昔の人はとっくに分かってたんだよね。相撲なんかでも「心技体」と言って、三拍子揃って初めて人として力士として一人前になるって言われてる。つまりはバランスだよ。
学歴社会どうこう以前に、物事に対して如何に対処するかが生きる上での基本的な問題なんだから、それを解決させる力を身に付けさせるのが教育のそもそもの目的なんじゃないの。たぶん。教育論なんて分かりませんがね。

なんだか結論をどこにもってくればいいのか分からなくなってしまった・・・。なんだろう。偏るのはよそうよって話です、要するに。
もうなんつうか今の自分では分からないことばかりなのにアレコレ言うのも問題ありだね。オレの手にはとても手に負える話じゃありませんでした。ちゃんちゃん。

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿
※SPAM防止のため、「http://」を禁止ワードに設定しています。















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://mikannoshikiso.blog44.fc2.com/tb.php/824-aeafae81